----だいじょうぶ、ですか?


 ひやりとした手が額にあてられ、おれはその気持ちよさについ身を任せる。

 そういえば。ちいさいころ、俺が熱をだすとカミュはしっとりとした手でだまって冷やしてくれていたっけ、身寄りのない俺たちはそうやって身を寄せあって生きて来た。ふと、そんな甘い想い出に引き戻されそうになった俺は、訊ねられた声の抑揚の差にはっと気がつき。がんがんと割れるような頭痛を押し殺して、暗澹たる予感とともにうっすらと瞼をあけた。

 自分の網膜の先に見えたのは、懐かしいルビーの瞳ではなく、俺よりすこし薄いアイスブルーの氷河の瞳。

 

「…すまん」

 その言葉が咄嗟に口から出た。


 俺はなんということを。

 あいつが生きて俺を待っていた、などと。拉致もない幻想を追いかけて、しかもあいつの愛弟子に。ああ、くそ…なんということを。 君のことを掌中の珠のようにあんなにも大切にしていた事ぐらい知っていたというのに。

 じっと下を向いて後悔の念に苛まれる俺に、氷河が問う。

「さっきの行為は、なんだったのですか?」

 どう答えて良いのか解らず、うつむいたままの視界の先に、君の白い膝頭が見える。だいぶん俺もあいつの幻影を追いかけて耄碌してしまっているな、と自嘲しながらも。やはり口は動かず、逆に、訊ね返してみた。

「あれは、やはり、きみだったのか」

「はい」

 夏至のために採取して来た檜の香りだろう、サウナからの芳香漂う簡素にして頑丈なログハウスの中は、柔らかな香りに包まれていた。

 俺は、罪の意識に苛まれていた。すこしだけ自失したように、唇をふるわせながら問う氷河の、幼い筋肉がついた膝から目が離せず、どうしても顔を上げる事ができない。そして、また、きいてみる。

 だいたい、行為の意味を、どういっていいかわからず、またも、はぐらかして逆に質問で返す俺は、どこまでも、ずるい。

「きょうは何をしていた」

「いつもどおりの、訓練です」

「偉いものだな」

 …たった一人になってしまったというのに。

 

「今は、夏至祭りのあとだから、先生に言われた良い香りの薬草を摘んで来ていたんです。これが、俺たちの、毎年の---」

「---習慣だったのか?」

 そういってやっと顔をあげると、緊張の糸が切れたように、氷河が俺の瞳をじっと見つめ、透明な蒼い瞳から、ダイヤのかけらのような涙がぽろぽろととめどなく流れ。嗚咽があとからあとから喉の奥からこみ上げ、すこし逞しくなった腕が、そのまま、俺に縋るようにしがみついてきた。

 抱きかかえた身体は、あの時星命点を突いた躯よりすこし大きくなっていて、伸びた手足が成長期を物語っている、おれ達が会うたびお互いの変化に驚き感嘆しあったあの優しい過去のように。


 肩を震わせながら俺にすがる氷河の孤独はきっと俺には理解できないものなのだろう。想像もつかない、喪失感。

 去年まで一緒にサウナを作り、夏至の祭りを祝った、師と兄弟子は。

 もう、この世にいないのだ。

 

 彼自身が葬った。

 星の命とはいえ、師と、兄弟子を。

 自分の手で。



 イワン・クパーラからもう数日過ぎたのに、大量の薬草が蓄えられたサウナの倉庫が見える。氷河、お前は無意識のうちに三人分の薬草を祭りのために集めていたのではないのか?すると彼はぐいと拳で涙を拭いて恥ずかしさを逸らすように横を向いて言う。

「お祭りは水と火が交わる日だと考えられていて、河原で焚き火をするんです。夜に川で花冠占いをするんですけれど、川に投げ入れた花冠が浮けば幸せになる、と先生は云っていました。」

「ロマンチストだな。やはり俺も詳しく聞いていいか。 きみは、さっき、なにを考えていた?いや、なにをしていた?」

 いや、誰のことを、と聞くべきだっただろうか? すると強情な瞳は一歩も引かず、しかし頬をさあっと染まらせそれでも素直に答える。

「自然現象です、解っているのでしょう。貴方だって男なのだから」

「ああ、解っていた」

「では、何故俺に対して…」


 駄目だな、これはきちんと答えるまで許してもらえそうにない。

 強情なところはそうやって師に似てしまうのだろうか。

 諦めて、俺はすこしずつ、口を割ってしまう、妙に幸せな記憶とともに。

「本当に、知りたいか、知ってもいいのか?」

「ええ」

「お前の歳で知る事ではない」

「でも貴方はしていたんでしょう?」

 くそ、流石にあいつの弟子だ。鋭い舌鋒から逃れられそうも無く、仕方なく俺は話しはじめた。

「あのサウナは、俺がはいったとき、同じようにカミュが自慰をしていた処なんだ。当時は…俺を想ってしていると、その瞳が語っているようにみえたよ。そんなことは結局はうぬぼれだったかもしれない、が、そのまま俺はあいつに縋り口淫し、全てを飲み込んだ。まあ、青臭い思い出の場所、というところだ。」

そして一拍置いて白状してしまう。

「俺には、あいつがいないなんてまだ信じられない、同じ場所でお前の躯を見て、あいつが、もしかしたら戻ってきているのかと錯覚した、悪かった。」

 そういっている自分の口調が堅くなり、自然にこわばるのを感じ、慌てていった。

「だがお前には早い事だった、謝る。これ以上言わせるな」


 すると、微笑んだ氷河の笑顔は、涙が零れ落ちるのを我慢するように天を向き、ゆっくりと、こういった。

「うれしいです」

「なにが」

「あの人と一緒だったなんて」

 そういってくすくすと思い出し笑いをし、君は言う。

「ミロ、貴方との関係など、うっすらと知っていましたよ。まだまだ子供だなんて思わないでください。性に対しては俺達は閉鎖的な分、必要以上に興味を持っていた。もちろん貴方との関係も。」

そして、拗ねたようにいう

「酷いんですよ、あの人は、おれの金髪をくしゃりと触るときに、時に想いにふけり、貴方の話をすることさえありました。ミロの金髪はギリシャの空に映えるんだ、なんていって。正直、妬けました。」


 苦笑しながら大人びた瞳が続ける。

「それに、躯の関係というのも、なんとなくばれていましたよ」

 俺に語るとも、自分の思い出に浸るともわからない表情で、氷河は言う。

「あなたがきた時には、特別にウォッカ入りのロシアンテイがでて『早くねなさい』なんていわれました。そんな風に寝かしつけられて貴方が去ったあと、翌朝の師は、遠くを見てはぐつたりと気だるい風情でいる。まったく…。目の毒ですよね」

 おれも瞳の横から涙を落とすまいとしつつ、笑いながら答える。

「そう、だったのか。それなら俺もおあいこだ。あいつは聖域に居ても、いつも心ここに有らずといった風情で、俺だけのことを見てはいなかったよ。いついかなるときでもお前達を気にしていて、決して俺だけのものにはならなかった」

「そうでしたか、幸せな事を聞きました」

「俺たちはやきもちを妬いている同士だったのかな」

「互いの繋がりに?」

「ああ、だとしたらお前の師は罪な奴だな。俺に嫉妬したか?」

「解りません、この閉鎖された環境では、憧れと性の対称を混同していたかもしれません。俺は、ここだけの話ですが、師を犯す夢想をする一方で、愛しあう『貴方がた二人』に強烈な憧れを持っていました。その魂の共有は一体どんな感覚だろうと。だから知りたんです、貴方が師にどんなことをしていたのか。」


 そして、まだ頑是無い唇が、決意を込めて、こう云った。

「俺にも、師と同じようにしてください。」



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