「こういうことはちょっとの遊びじゃ済まなくなることもある。解って言っているのか?」

 しずかに、しかし強い口調で尋ねても強情な瞳は一歩も引かず。氷河は黙って俺の後ろに立った。そして柔らかい布で俺の目を静かに塞ぐ。カミュの夜着を羽織ったらしく、懐かしい匂いがふわりとただよう。


 なにをする気なのだろう、興味のほうが先に立った。氷河が促すまま、なんども歩き慣れた室内で手を引かれ、寝室に一歩ずつ脚を踏み入れていくと、背後でぱたりとドアが閉まる音がする。

 座らせられたシーツの触り心地には、覚えが有った。

 お前の弟子はなかなか策士だな。この、ぴんと張ったシーツの感触、きちんと整えられた部屋の空気、弟子達に聞こえぬようにきっちりと扉に鍵をかける、律儀なお前の習慣だった。そして、そんなところまでもなぜかきちんと受け継がれている事に苦笑する。

 こうしてカミュの残り香を嗅がせられ、目隠しをされては、おまえが時々ふざけて俺の目を塞ぎ、行為に至ったことを嫌でも想い出させされるじゃないか。

 --おい、お前弟子の育てかた、間違ってるぞ?

 バスローブに染み付いている僅かな残り香はカミュの好きだったトワレ。いつもは付けないのだが、俺と逢うときにだけほんの少しだけ控えめにつけていて、それが秘密の合図でもあった。その芳香は毎回全てを惜しむように愛しあった甘やかな記憶を鼻腔からくすぐっていく。臭神経は最も脳髄に近く、思い出を怒濤のように掘り起こす。目隠しされた俺の鼻腔にわずかに漂うノスタルジア、そして性を予感させるラストノートの薫り。


 先ほどまで、相手を抉って居た筈の局所に手をのばされると。俺の一部は既に屹立していて、少年の手で透明な糸が牽かれた。ぬるりとした感触をたのしむかのように氷河は落ち着いた声でいう。

「流石、若いですね」

「からかうな」

 まったく、親友への恩義だてに板ばさみになっている身にもなってくれよ。

「目隠しを外してくれ、君が見たい。君とカミュは別人なんだ。そんな手管を遣わなくても、君は充分に魅力的だ。とても嬉しいが、そういう方法で、俺を振り回すのはやめてくれ」


 ふっと笑う気配とともに、瞼のまわりにひやりとした空気が入る、外してもらった目隠しから、開いた瞳に映る氷河は、柔らかい皮膚をまとう少年の躯に似あわぬ痛々しい傷跡も、なにもかも隠しもせずたたずんでいた。戦闘のためだけについた均整のとれた筋肉に凛とした美しさをたたえたその姿は、さながらアドニスのよう。お前の師が箱に閉じ込めようとしたのも、神話と同じく、偶然ではないのかも知れないな。

 ぱりっとしたあいつのシーツに座ってその肢体を眺める、ああ、こんな状況、何度もあったな。こんな、媚態を晒すなんて、まったくお前の師はいったいなにを教えていたんだ。


「俺は、手加減を忘れる男だ」

「知っています」

 そういってすらりとした躯に手をのばすと、もう、歯止めが効かなかった、絡み合わせた腕を牽いてベッドにぐい、と引き倒しても、氷河は動じない。すこしだけはにかみながら、しかし自分のしたい事を貫く。強引な行動は誰ににてしまったのだろう。肩を抑えこみ、速い鼓動を打つ平らな胸に、点々と付く引き攣れた傷跡はまだ生々しい。スカーレットニードルの、その傷跡に唇を寄せ、ちいさく舐めてもういちど、言った。

「容赦すらわすれてしまう男だ」

「ええ、そんなこと。よく解っています」

 だが、ため息をつきながらも俺の躯は正直すぎた。敏感な部分をぎこちない手で刺激されると、甘い快感がじわりと体中に広がった。すこし火照った薔薇色の頬と少年らしいきりりとした唇が、見透かしたように云う。

「利害一致ですか?」

「さあ、似た者同士ともいうのかもしれないな」

「性欲処理だとしても、俺で良ければ受けて立ちます」

 生意気いうな、といってくしゃりとその髪に手を通した。

「わかった、だが条件がある。俺の腕の中では誰を想ってもいい。ほかのやつらは性愛に何を持ち込んでいるのか解らないが俺は構わない。俺もお前以外のことを考えるかもしれない。…誰のことをいっているか…わかるだろう?」

 おそらく、同時に脳裏にうかんだのは氷のアクエリアス。まったく、おまえの所為だ、なんていったら怒られるな、でも罪な奴だとはいわせてくれ。

「それでもいいか?」

「ええ」

 そういって、アイスブルーの隻眼が頷いた。


 俺たちは箱の中の小さな宝物をなくした子ども同士のように、残された痛みを噛み締める様に、静かに会話しながら緩やかに行為に及んだ。


 相手を愛しているから、行為に及ぶのもいいだろう。

 相手が欲しいから、行為に及ぶのもいいだろう。

 だが、この性交はすこしだけ勝手がちがった。まるで躯を挟んで、お前が居る気配がするような、そんな静かな躯の会話のよう。

 これが、性欲か愛情か憧憬かどうかなど検証するには、俺の脳も身体も、おまえを失った哀しみと今にも叫びたくなりそうな妄執でわからなくなっていた。ただ自分を突き動かしているのは、目の前の若木の様な躯を貪り支配したいという欲求だけ。いや、実際のところは身体を埋める己自身が救われていたのかもしれない、後に気がついた事だが。


 俺は生前のあいつが好んだ方法で行為をすすめて行った、けして激しくなく、欲情を抑え、やさしくゆるゆると始まる愛撫。耳に首筋にそして滑っていった唇で敏感な部分を何度も甘噛みすると、まだ細い躰は震え、抑えた声を出しながら大きくしなった。なおもそこをねぶるように丹念に転がすと甘い吐息が深く、そして速くなっていく。

 すこし、きつそうになってきた氷河に訊ねると。

 「いいんです。同じようにして、おなじことを言って、ください」

 などという。その、変な律儀さもすこしだけ、似ているよ。全然似ていないのに、すこしだけ似ている瞬間、そんな姿に一瞬どきりとする。

 口づけをなんども交わし、反応する場所もわからず探り、触れながら。途切れ途切れの呼吸の中、会話だけは妙に静かだった。

「糞真面目なところは師匠に似たな」

「そうでしょうか」

「ああ」

「でも…んっ…」

 一瞬会話が途切れ、快感の引き出しを捉えられた小さな躯が跳ねた。

「…むかしのおれは、あなたに嫉妬を抱いていました」

「何故?」

 熱く火照った繊細な耳介に舌を這わせると、おそらく初めての感覚にその背中がびくりと震える。

「笑顔に…」

「何の?」

 そういって、静かに微笑むと。氷河は荒い息をなんとか整えながら俺を見上げてゆっくりという。

「あなたが師と交わしあう笑顔はおれには辛かった。でもこうして、その笑顔が自分に向けられて抱きしめられると安心します。この極寒の地で貴方は必要な人だったのですね…すこしだけわかった気がします」

 そういって、はにかむように微笑むお前の強さは二人を葬ってきたがゆえだろうか?

 

 すこしずつ染み込んで行く水のように、俺と君は躯の記憶を共有していく。自然に、ゆるゆると、いつのまにか、追憶の深みへ。

 ゆっくりと何度目かの深い口づけをしたときに、君は言った。

「俺、初めてなんです。」

 そんなことあたりまえじゃあないか、と思いながらも、その表情があまりにも真剣で。

『初めて、なのだ』と言ったあいつの言葉が脳髄の中で解けて融合し、瞳の奥が熱くなる。


 白夜に照らされた行為は、果ても解らず、だが放物線のように自然な曲線を描きながら、次第に頂点を目指していった。歪んで居るかもしれないけれど、ここは今、時間さえもない俺たちのちいさな隠れ家だ。あいつは許してくれるのだろうか?

「俺は羨ましかった、君たちの関係が」

「俺だって…羨ましかったですよ、貴方達の関係が」

 抱き合ってとぎれとぎれに言い合うと、お互いの声が躯の中で振動し、新たな快感を喚起させる。ぽたりと、頬を伝う汗が、君の金髪に落ちる。


 そのうち、君の若い躯は、悦楽の頂点への階段を登り始めた。体中をちいさく痙攣させながら、抑えた喉から断続的な甘い喘ぎが何度もあがる。やがて、君はすこし子供っぽい蕩けそうな表情で、首筋にしがみつき、その唇は「せ…んせい」と形作ろうとする。俺はその口を無言で塞ぎ、そのまま強引に欲情のとどめを刺した。すると、しなる肢体は美しい鳥のように大きく跳ね、愛欲の残滓をしぼりだすように放出したかとおもうと、ぐったりと俺の腕の中に倒れて力つきた。

 その躯を抱きとめながら、だれにともなく、いや自分にかもしれない独り言をつぶやいた。-----誰のことを考えてもいい、俺の腕の中でカミュのことを考えてもいいんだ。おれもたいがいひどいことをかんがえているからな-----。

 そう言った途端包みこんだ細い肩は小さく震えだし、熱い涙がとめどなく俺の胸を伝う。落とした涙は汗と混ざって落ち、すくって舐めたその味は、ほろ苦かった。

 泣きたいのは俺も同じ。だが我慢した。すこしだけ、おとなだから。


 白夜の朝は曖昧で、たぶん朝だろうと想う時刻に氷河の顎を触ってみる。

 まだ柔らかい髭を撫でながら、あいつは髭も陰毛も薄いことをなんだか気にしていたな。なんてことをふと思い出していると。おきかけていた氷河が、擦り付けた俺の無精髭を、硬いといって寝ぼけ眼でくすぐったそうに除けて笑い、朝もやのなか、俺より色素の薄い金色の睫毛が太陽のように見開いた。


 見計らって手元にギリシャ風の甘いコーヒーを渡し、聞いてみる。

「美味いか?」

「先生のには、負けます。でも…なんだかすこしだけ、先生の好きだった味に似ている様な気がします」

 俺はギリシャ風コーヒーを苦いと云ったカミュのために、すこし煎れかたを変えていたのだったが、ひさびさで、つい、濃く入れてしまったらしい。

「そうか、きみの師が好きな味にしたつもりだったが、鈍ったかもな」

 そう伝えると、うれしそうに起き上がる氷河の、その裸の肩にシーツをかけて俺はうしろから抱き寄せた。

「後悔していないなら、もうすこしだけ、あいつの話をしていいか?」

「ええ、でもその前に。」

 そんな笑い方まですこし似ている、困ったな。

「朝露とともに夏至祭りにひらいた花々は、薬にもなるという言い伝えがあるんです。一緒にとりにいきませんか?」

 川に投げ入れた花冠が浮けば幸せになる。そう、お前は言ったのだったな。

「そして、一緒に花冠を投げませんか?」

「君の、頼みなら。」

 そして俺たちは手をしっかりと繋ぎ、あいつに手向ける花を摘みに行った。

 朝露とともにひらく花を摘み、川に花冠を投げて占う。

 そんな行為。まるで童話じみているけれども、 お前は沈まぬ白夜のように、こうしておれたちの手に足に、記憶に、濃厚に散らばっている。そんな追憶を共有できる相手がいることを確かめあえただけで、幸せなことなのかもしれない。


 二つの花冠は、奇麗に浮いて流れていく。

 ふと、お前が微笑む気配を感じた気がした。

 なんて贅沢な白夜の葬送なのだろう。



  



2012/9/30

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