数年前、初めてシベリアに来たのは粉雪舞う冬の始まりだった。

 極寒の地に、気が早い冬の使者が舞う最初の朝。

 俺は、親友のところに弟子入りする子供を安全に送り届ける命を受け。

 涙をこらえながら一生懸命歩く、氷河の小さな手を曳いて。

 コホーテク村から、何もない氷原の一軒家にお互い無言で歩いていった。




     ----白夜-----




 今、氷河と手をつなぎ歩いているのは、短い夏を謳歌するように生命の茂る草原だ。

 俺の手はすこし大きくなった同じ手に逆にひかれ。

 今を盛りと咲き誇る花々を、イワン・クパーラの花冠のために摘んでいる。

 朝露に濡れた白皙の頬に俺より薄い金糸が絡まり

 俺は笑いながらそれを除けてやる。

 

 故人を想い、追憶しながら花を集める、贅沢な白夜の祭り。

 こんな日が来るなんて、想いもしなかった。

  

 絡んだ指先から伝わる僅かな後悔と、妙に満たされた心を抱えて俺は想う。

 そうだな、あれはきっと俺たちに必要な儀式だったに違いない----。


 


 海王の乱から幾日か経ち、聖域も落ち着いたころ、極寒の地に向かった。

 村から俺の足で歩いても半日かかる何も無い氷原に、簡素で丈夫な小屋が変わらぬ佇まいでたっている。

 表向きは後見人、という名目だった。ちょっぴり頑固で、俺が認める一人前の男で、だがやはりひよっこの様な坊やの様子が心配で見に行くつもりでもあり。そのじつ、内心はカミュが暮らした最後の場所を、少しだけでも見ておきたかったためでもあった。


 到着したシベリアは、太陽の沈まぬ白夜の季節だった。

 永久凍土の地と言えど大自然の摂理には逆らえず、夏の時期には下草や小さな花が生える生命溢れる湿原を、延々とあるく。お世辞にも暖かいとは言えないが、一年に一度の柔らかな光を求める土の匂いのする風が心地よく。歩いても歩いても、変わらない風景と沈む気配のない日の光に、時間の観念を忘れてしまうような奇妙な感覚に囚われる。

 やっと着いた修行小屋に入ると、あいつらが三人で暮らしていた時と、家具の配置はまったく同じだった。何度かこの季節に来た事はあるが、簡素な修行のための家の中はいつまで経ってもほの明るい。沈まぬ太陽が誘うトロンプルイユのような光景に、自分がどこにいるのか、今が何時なのか解らなくなってしまいそうになる。


 静かな部屋には人気がなかった。

 アテネの灼熱の太陽とは違い、しずかな氷原に沈まぬ光がうっすらと投光器のように地平線を照らして居る。ああ、夏至の中日も、もう過ぎたな、と想うと。

 ふと、カミュの言葉が脳裏をよぎった。

『ロシア語では夏至をсолнцестояниеという。太陽が止まってる状態という意味なのだ』

 そんな風にあいつは言っていたな。この時期にあるイワン・クパーラという名前の祭り。 カミュに連れられて行く年一回の行事を、ちいさかった弟子達も毎年楽しみにしていたっけ。

 この家の、たった一人の住人になってしまった彼…氷河はどこに行っているのだろう。

 ぼんやりとそう思いながら。俺は少しばかり疲れた躯を、カミュが気に入っていたソファに横たえ、いつの間にかうとうとと眠りについていた。


 目が覚めても、まだ太陽の位置は少ししか変わっておらず、どれだけの時間が経ったのかさえ解らなかったが、どうやら夕刻になって来たようだ。すこしだけ空気が冷えてきている。見渡すと暖炉に火種が灯り、壁には練習用の靴と上着、そして汗の染み込んだタオルが置いてあった。

 

 ---ああ、かえってきていたのか。

 ぼんやりと薄目をあけて見ると、足元が暖かかった。

 俺の膝にいつのまにか掛けられている薄いブランケット。その柔らかさに一見不器用な君たち師弟の素顔が透けて見える様な心持ちがした。しかし家の主は部屋の中にはおらず、耳を澄ますとバーニャと呼ばれる浴室から水音が漏れて聞こえていた。

 風呂にいるのか。そう想って少しだけ扉を開けたフィンランド式の蒸し風呂からは、檜の佳い香りが立ち上っている。俺は悪戯心をだして、気配を殺し静かに浴室のドアを開いた。この家のサウナには何度か入っているから構造は知っている。

 かぐわしい湯気の向こうにあのときよりすこし逞しくなった躯が見え、訓練後らしく汗をかいた躯にサウナ後のシャワーを浴びている。

 驚かそうと声をかけた俺は、氷河の手が、おずおずと下肢に向かうのを見てしまった。


---強烈な既視感だった。

 忘れかけていた記憶だったが、丁度同じぐらいの歳にカミュの自慰に出くわしてしまったことがあった。若かったお前はサウナで火照った頬を耳まで紅くし。潤んだ瞳は恥じらいを含んで俺を見つめていた。俺も同じく頬を染め、どうしていいのかわからず、一瞬立ち尽くしていた。

 しかし、訓練後の汗でまとわりつく紅い髪と、滴る水滴が薄暗い灯りに反射したその肢体は、余りにも神聖なものに見え。俺はカミュの前に自然に膝をついて屈み、薄桃色の切っ先に、恭しく口づけたのだった。


 まるで、時間のない国で同じ場面に出くわしてしまったかのようだった。あれは氷河だ、と脳髄の理性の端が少しだけ言っている。だが俺の理性以外の脳の部分は簡単に記憶を裏切った。

 「何故…。」行為を見られ、おもわず声を失いこちらを見つめる瞳はアイスブルーで、しどどに濡れた金糸の隙間から火照る頬が垣間見えた。そうなんだ、ここにいるのはあいつじゃない、あいつとは全然、違う人間の筈なのに。だが、では、ここにいる筈なのはだれだ? 俺のアクエリアスではないのか? 氷の聖闘士の訓練から生まれる、無駄の無い特有の美しい筋肉は、若い頃のカミュと似ているような気がする。  

 しかし、ああ、ここは余りにも暑い、熱気にあてられ俺の頭が混乱する。ここにいるのはあいつに違いない、だってそうだろう? こうして俺を待っていてくれたのだから。そして、俺は吸い寄せられるように、ゆっくりと近づき、足元に自然に跪くと、羞恥にたじろいだ小さな声がした。

「あなたがそんな、頭を上げてください。」

 いやだ、こうして、折角会えたというのに、もう失いたくない。

 するとその瞳は消え入りそうな恥ずかしさに色を変え、うつむいて火照った頬が湯気の間に見え隠れする。跪いた俺の肩先に、ぽたりと欲情の汗が垂れた。俺はそれを舐めとって、さらに膝まづき、恭しくその切っ先を舐め溶かす。つるりとした先端のぷくりと膨らんだ露は、なんだか懐かしい味がして。俺は彼のすべてを静かに口に含み、ほんの数回前後した。

「や、あ…。」

 触れたとたんに放出された若い性の迸りは、一瞬の激しいものだった。

 口の中一杯に欲望の味が広がり、俺はそのほろ苦い液体の全てをゆっくりと飲み込んだ。

 


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