深海の異空間を突っ切って泳ぎきり、湿度の高い海底神殿に帰還すると
丁度都合の悪いことにカノンがいた。
俺はちょっとだけこいつが苦手かもしれない。奴だけは俺の出自を知っている。
いや、正確に言えば嫌いという訳ではない、師に近しい小宇宙を持っているからつい甘えてしまいそうになる自分が怖いのだ。
そんな俺の心境もかまわず、こいつはいつも妙に馴れ馴れしい。
「アイザック。また、東シベリア海に行っていただろう。」
「俺の守護海域だからですよ。」
「そうかなあ、お兄さんには解っちゃうんだよなあ。弟分の様子でも気になるか? ボーヤ。」
偉そうに鼻で笑って自分のことをお兄さんなんて言う奴はお兄さんじゃない。
おっさんだ。中年だ。しかも俺とダブルスコアの。
「馬鹿を言わないでください。不良中年。ここに来てからあなたにまともな事を教えてもらった記憶なんてありませんから。」
「ふーん。不良...ふりょう...ねえ。そうかもなあ。じゃあ少しは悪いことでも教えてやろうか?」
カノンは気にも留めずくだらない事をへらっと言うものだからつい俺も答えてしまう。
「結構です!」
「ムキになるなよ。それとも、あの美形でちょっとイカレてるアクエリアスでも恋しくなったか?」
なんて追い打ちをかけてきた。図星なのだがそんなことコイツに言えるか。
もう俺は無視してその場を立ち去った。阿呆な冗談につきあっていられるか。
ふざけた事を平気で言い、偉そうな顔で笑う適当なこいつが聖闘士の鑑のようだった我が師カミュと同じ黄金聖闘士の候補だったなんて俺には信じられない、いや信じるもんか。
ただ、こいつから感じる小宇宙は俺と同質だし、いつも組み手では圧倒的な強さに負けてしまうのだけれども。
ポセイドンに助けられて最初に海底神殿で覚ました時。俺は一瞬ここが女神神殿なのかと思った。なぜなら、俺を見下ろして心配そうにしているカノンから懐かしい師と同じ小宇宙を感じたから。
その顔は呆れる程に整っていて、師とはまったく違う意味で芸術品の様に美しかった。堂々とした男らしい躯。そして強大な小宇宙。くだらない冗談をいわなければ完璧なのに。
せっかく命を救われても、俺は一時期自分だけが脱落し、取り残された様に感じて鬱々とした日々を過ごしていた。だがあるとき振り返って周囲をみると、海闘士の皆が幸せな出自とは言えないことに気がついた。そしてここに来て自分の見ていた世の中の狭さを知った。正義という名を掲げる事の矛盾も。
俺にとっていままで世界のすべてはカミュと氷河だけだったから。
たとえばスキュラのイオ。奴はチリ内戦時にストリートチルドレンだったところをテロリストに拾われて、戦闘時の特異な能力を見いだされて海域にやってきたんだそうだ。その時のことはあまり語りたがらないが少し鋭い目つきの奴の口癖は。
「あそこにいたままだったら俺はどうなっていたか判らなかったな。少年兵として命はなかったか、この力を暴走させて無辜の人たちを殺めてしまっていたかもしれない。もし俺の能力がなにかの役に立つのなら。どうせ死んだつもりの命ぐらい。いくらでも捧げるよ。」
と、すこし吹っ切れたような表情で言う。
あんなに辛いと思っていた修行時代でも。俺は、いや俺たちは慈しまれて育てられたのだ。
あのときイオと南太平洋に沈む鮮やかな夕日を見ながら、師の優しい横顔と艶やかな紅い髪を想った。