とうに傷が癒えたはずの左目が、ときおりずきりと痛む。



水中に浮かぶ星のようなきらきらとした幾千もの氷のかけらが頬を掠め、水の圧力を感じながら泳いで行く。すると重い水をかき分けた先にふっと躯が持ち上げられる感覚がある。潮の流れだ。そこに乗ると鱗衣の周りに薄い空気のシールドを張っていてもなお冷たい海流が痛い程に頬にあたる。

少し躯の向きを変え、潮流に乗ってきらきらと鱗を反射させる魚たちとゆっくり合流する。


仕えるべき主を変えてから俺に取って海は恐ろしいところではなくなった。こうやって鱗衣を纏って水中を移動する術を海闘士になって会得した。どんな冷たい水に飛び込んでも今では母なる海の懐の中で本来の自分に戻れたような安らぎを感じるようにさえなった。轟々と渦巻く冷たい危険な潮流を避けて泳ぐことにももうとうに慣れてしまった。

だが、ポセイドンに仕えて得たこの力の代償に、俺はもう以前の自分ではなくなってしまった。

今の自分だったら、あいつと一緒に師の元に戻る力があるのに...などと、今更考えても詮無いことがふと思考に浮かぶ。


俺はもう女神の聖闘士ではない。


古傷が痛むのはこんな事を考えた時だ。もう感覚など無いはずだと思い直し、頚を振って俺は守るべき領海を廻る。


東シベリア海の海面から届く薄い光が鱗衣に絡まり反射してきらきらと輝いている。頭上には白く厚い氷が張り光の加減によっては海水が明るいアイスブルーに見える。あいつの瞳の色みたいだな。

北氷洋の厚い氷の下でも真夏にはほんの少しの太陽の恩恵が注ぎこまれる。

その僅かな光で、プランクトンが生成され小魚から肉食海獣まですべての命が育まれているのだ。

氷の上で修行をしている時には気がつかなかった豊穣の海。俺が一番好きな場所。


分厚い氷の下すれすれまで浮上して泳いでいると。人が泳いでいるのが珍しいのか、それとも金色の鱗衣に惹かれてか、人懐っこいシロイルカの群れが俺にすり寄ってくる。

案外こいつらの躯はつるりとしていて柔らかいから、俺は鱗衣で傷つけない様にそっと鼻の先を撫でてやる。すると『海のカナリア』と言われるこいつらは『く---。く---。』という声をあげ喜んで俺の周りで戯れる。イルカの顔を正面から見るとまるで笑っている様に見える。俺も久しぶりに笑うとこぽこぽと口から泡がこぼれ、その泡をボール遊びの様に追ってイルカがくるくると俺の周りを廻る。

...だめだよ。あまり騒ぐと...。』と唇に人差し指を当て、俺はイルカ達にジェスチャーする。

こいつらはとても頭がいいんだ。

あんまりうるさくしたらカミュ達に気がつかれてしまうから。黙っていてくれよ、な?


俺はもういなくなった存在なのだから。




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