「明日帰る。」

 カミュがシベリアに戻る時はいつも唐突だ。

 そうひと言いってお前は心のシャッターを切り替える。


 本当は修行地だから此所に居るよりも嬉しいのか。

 それとも責任に身構えているのか。


 俺には解らないまま、既に『先生』の表情になったお前からは、いくら、訊ねても顔を覗きこんでも

 俺を見る瞳の温度が感じられなくなってしまう。



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 その会話が出た時に食べていた昼食はクロワッサンとムサカとホリアティキサラダ、そして『オンセンタマゴ』にカフェオレ。

 ギリシャでもフランスでもたいてい朝食は軽くしか摂らない。

 その代わり昼食はたっぷりとる、これでも少ない方だ。

 カミュが聖域に居るときには出来るだけ二人で昼食をとろうと思って、俺も料理を覚え始めた。

 最初はギリシャ風とフレンチが混じっていたが、最近はなぜかジャパニーズが混在しはじめて『オンセンタマゴ』まで登場するようになってしまった。実際作るのはカフェオレとタマゴだけだが。

 ジャパニーズの食事にかぶれるなんて、そんな処だけフランス人ぶるなよ。と一人ごちてみたが。とろりとした黄身は案外とクロワッサンに合い、クロックムッシュジャパニーズ風に塩をさっと振って食べるのが二人の習慣になった。


「帰る」と宣言したあとの会話は俺にとって退屈きわまりないものだった。シベリアに残る弟子に持って帰る本、教育の内容。そんなことについて語るカミュの話に耳を傾けていると、取って付けたようなサラダの表面だけがだんだん乾燥してきて、噛んだ葉脈が歯茎にいつまでも挟まっているみたいな苦い味が口の中に広がっていく。

 だいたいシベリアに『帰る』ってなんだよ。

 おれたちの守るべき場所は聖域なんじゃないのか?

 

 だからおれは少し拗ねてわざと言う。

「次は、いつこっちへ『帰る』んだ?」

「さあ、修行の状況によって、だな。まずは音速の体得までは到達させたいと思っている。それから…。」

 俺の表情に気がついているのか居ないのか、熱心に語り始めるカミュに少々腹をたてて俺は昼食の席を立ったが、既に心ここにあらずといった風情のお前は、分担した皿をさっさと洗うと黙々と荷物のパッキングを始める。

 弟子と俺とどっちが大事なんだよ。

 なんてくだらない事はいいたくないけどさ、ちょっとだけ妬けるんだって事ぐらいわかってくれよ。

 そんな大人げない自分に嫌気がさし、真剣に荷作りをするお前の姿に会話する気も失せて、そのまま夕方までにやる事を済ませ、俺はさっさと寝床に入った。

 

 翌朝、何も言わずにカミュはもう居なくなっていた。

 こういうところ、割り切りすぎていてちょっと辛くなる時がある。

 

 しんとした大理石の部屋で、起き上がると。

 普段一人で居る自宮は、たった数日居ただけなのに、紅い髪が動く残像がないだけで、妙に広く見えた。

 棚のネイルのセットがない。

 クローゼットに掛けてあった服が減っている。

 お気に入りの歯ブラシがない洗面台も、がらんとして見える。


 カミュが天蠍宮に来るようになってから、俺はいままでくだらないと思っていたことをたくさん憶えていった。

 美味しいカフェオレの入れ方。

 カミュの好きな料理の温度。

 黄身がもっちりとしたオンセンタマゴの作り方。

 実はあいつがお気に入りのタオルケットがないと眠れない事。

 

 朝の訓練が終わり、戻って来て、何となくいつも通りに二つ卵をゆで始めた、しかもぼーっとしているうちに湯が沸騰してしまいハードボイルドエッグになってしまう始末だ。おい、出来たよ、とつい癖で声に出して言ってしまってから、何をやっているんだろうと自問する。独り言は大理石の壁に空しく吸い込まれるだけだ。

 本当はカミュが美味しいというから一緒に食べていただけで、ギリシャの甘いパンには卵は合わない。昔は料理すらつくらなかったことをあらためて思い出し、二人分の卵を前にどうしようかと思い悩む。

 

 結局二つ分の卵を食べたら、胸焼けがして、妙に広くなったベッドに寝転がる。せめて、昨日の夜キスしたかったよ。と、ひとりつぶやくと。

 もう出かけた筈のカミュの呆然とみ開かれた紅い瞳が俺をみていた。


 真っ赤になって言い訳しようとする俺に、お前はいう。

「忘れ物を、とりにきた。」

 ああ、そうかよ、なんだ、タオルケットか。

 無いと眠れないって言ってたもんな。

 と、力が抜けた右腕でタオルケットを握り、ぽいと放る。

 しかし、いくらなんでも俺の不機嫌そうな顔に気がつかない訳がないはずなのに、少し細い影はベッドの脇に立ったままだ。

「どうした? はやくいけよ。」

 と俺がいうと。

「ちがう、他にも忘れもの。」

 そういってタオルケットごと俺を押し倒して唇をぶつけてきた。

「今日帰るんじゃなかったのか?」

 と訊ねると、なんだかすこし熱っぽい瞳で

「いちにち間違えていた。」

 なんて嬉しそうに言う。


 目の前が朱色に染まった視界の中で想う。

 おい、そんな言い訳どこで覚えてきたんだよ。

 くそ、昨日までの偉そうな先生面に文句をつけてやりたい。

 そんなことを、ちょっとだけ頭の隅で考えながらも。

 俺は、卵の黄身のようにとろとろに溶けだした唇を夢中でむさぼる。

 もう、止めることなんて出来やしなかった。





 Fin

 2012/4初出


 

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