「わたしは、わたしはな…。これでも、いっしょうけんめいやったのだ」

 グラスを次々と空にしていくルビーの瞳から、つうと涙が溢れ。

 安い居酒屋のテーブルにぽたりと落ちた。




 ----  涙の翌朝 ---




 おれは、何も言えなかった。だが『これ以上はやめておけ』と伝えたくてグラスを取り上げようとすると、お前が一瞬にして氷点下にしたガラスは、冷たいどころか、ドライアイスのように酷く熱かった。まるでクールなようで火傷しそうに熱いお前の心のよう。くそ、握ってさえ居られやしない。諦めてグラスから手を離すと、凍ったウォッカはすぐにとろりと透明な液体に戻り、もう何杯目か解らない酒を、カミュの細い喉はごくごくと呑み干す。

「便利な技だな」

 そう、不貞腐れていってやると。カミュは俺の顔をじーっとみて。

「たったの、まいなす、ななじゅうにど、だ。」

 と、偉そうに。ふふ、と嗤い。呂律のまわらない舌で云った。

 だが次の瞬間、子供のようにまた瞳を潤ませる。そのルビーにはアルコールの光が反射して、辛そうな表情をしているというのに、妙にきらきらと輝く瞳をついうっとりと眺めてしまう。こんどこそひと言忠告してやろうとおもった気持ちはどこかにきえてしまった。

「わたしは、きょーいくしゃ、に向いていないのだろうか、まちがったことをしてしまったのだろうか」

  今、俺の目の前に、たぶん世界一無防備な泣き上戸の酔っぱらいが居る。しかも頑固な。もしもこんな姿を他のやつにも見せてるなんてことがあったら俺はきっとただじゃおかないだろう。

 そのうち、下を向いて両腕をつき、つっぷして眠りそうになる。心配して覗き込むとかぶりを振って避けられたが、そうして頭を降ったせいで更に酔いが廻り、涙を溜めている長い睫毛でおれをじっと見上げた。その瞳は、いつもよりもよりすこし沈鬱に深い紅に曇っていて、瞼も少し腫れた顔は弟子にはとても見せられないほどに、涙と鼻水でぐしょぐしょになっていた。

 もしかしたら、さっきお前は「弟子がまた三日で去ってしまった」と、言っていたかもしれない、なんといっていたかは忘れてしまった。俺もおなじペースで呑んで同じぐらいに悪酔いしていたから、話を最後まで聴いていたかどうか自分の記憶さえあいまいだ。


  普段は滅法酒に強い筈のおまえの、世にも珍しい光景。だいたい、その日は最初からおかしかった。まあたぶんおれの見ていない間にをウォッカを何本も呑んでいたようだが、いつのまにか青い顔をしてふらふらと立ち上がり、店のトイレットに立てこもって出てこなくなった。

 心配で。薄い扉をがんがんと叩く、中で嗚咽している気配があるがおれの怒声で半分はかき消される。酔っ払っているふりの半分はお前の状況を目立たなくするためだ。


 丁度、新年の拝謁のあとだった。聖域には新年も聖ヴァシリス祭も関係なかった。一月一日にその年の運命を占うヴァシリピタを食べるぐらいが楽しみ、後は変わらぬ訓練の日常。

  あの当時の聖域には、俺たちにもはっきりわかるほどに奇妙な張り詰めた雰囲気が漂っていた。下界の祝祭が終わりを告げる1月6日のエピファニアの祝日まで日常はなにも変わらず。むしろ変わらぬ事が恐ろしい程の表面上の平和がぬるい湯のように不快に皮膚を覆っているようだった。やっと、一息つけたのは。カミュ。お前が帰ってからの御前拝謁の時だけだ。

 下界から一歩遅れ、一日だけの祝賀は全員が聖衣を纏い教皇に拝謁した。正確にいうと全員ではなくライブラとジェミニ、アリエスが不在の奇妙な違和感。しかしそれすらも毎年の風景のなかに埋もれ、だが慣らされて行くことへの強烈な違和感は年々増していった。教皇に一言ずつ下賜され、少しの酒を振る舞われ、それぞれの宮に戻った。


「飲みに、いきたい」

 帰ったとたん。とつぜん、お前が思いつめたような表情で言った。

 珍しいな、と思った。普段俺のところで呑んで行くことはあっても外に出ようとは言わないから。

 だが、今。トイレットの扉をがんがん叩きながら、お前の考えが正しかったと知った。お前の宮で呑んでも聖域内で呑んでも醜態が漏れてしまうかもしれない。ざわざわとして喧騒に包まれた酒場は、案外と涙と嗚咽をかくしてくれるものらしい。

 そして、おまえは気がつくと酒をがばがばと空け、この現状にいたるというわけだ。


 やっと出てきたカミュの頬はいつにも増して青白く、俺が背負おうとすると。

 ---- やめてくれ、吐いたらおまえを汚してしまう。お前が汚れてしまう。なんてばかなことをなんどもなんどもつぶやいた。

 おれは聞こえないようにちいさくぼやく。全く、馬鹿だなあ。そんなものでいまさら汚れたりしやしないよ。だいたい、この間飲み込んだお前の精液、汗、唾液。そっと舐めた脚のつまさきにいたるまで。すべてが美し蜜のように俺にはかんじるのだ。なんでもうけとめるよ、きにはしない。

 知った顔の店主に『また、たっぷり飲み食いにくるから』と目くばせすると『人生にはいろいろありますね』という、こういう稼業をしている人物特有の控えめな視線が帰ってきて、ちょっとほっとしたおれはカミュを背負って、ウインクして店を出た。


 酔っ払いを担ぎ上げ、アテネの街から聖域まで歩いた。 ぐったりと力が抜けた全体重をあずけられる。その躯の重さと背中につたわる暖かい体温は信頼されているのかもしれないという甘やかな期待を抱かせ、心地よい感触だった。躯を繋ぐ関係になっても、時々不安になるのは人間の性なのだろうか、たまにはこうして頼ってくれよ。

 おまえはきっと俺には肩代わりも出来ない弟子という悩みを抱えている。さっき酒場て『俺が先生やるよりも百倍ましだよ』なんていう冗談をいいそうになって喉に飲み込んだ、それでよかったんだ。

 辛そうな風情に心が痛む、はらりと肩にかかる髪がくすぐったくて、その頼ってくれる躰のおもさだけでも充分だ、と俺は納得した。頬にかかる髪は夜露を散りばめた星のようにしっとりとしている、なんて、いい香りなのだろう。ただ、一心に前をみてしまうおまえには。辛かったのだろうな。

 そのうちに妙に暖かくなった躰は規則的な呼吸をし始めた。

 ああ、少しだけ落ち着いてきたようだな、と俺は冬の澄んだ星空を眺めながら、お前を一人でかえしていいものかどうかと迷って自宮に向かった。


 天蠍宮についたとたん、入り口のソファにぐったりと横になり動こうとしなくなった。ベッドに引っ張って行こうとしても無理。お前の頑固は織り込み済みだ、仕方ない。瞳へのキスをして、かけてやった毛布が充分に暖かいことを確認し、俺も自室のベッドへ倒れ込んだ。


----翌朝の光に薄目を開けると。


 そっと、そして隠れるようにちらちらと部屋を覗いている人影が見えた。明らかに何と詫びようか迷っているカミュの姿だった。ギリシャの白い壁で紅い髪の頭の気配が消せる筈もなく、そのうち、寝ている俺をちょこちょこと覗く回数が頻繁になり、その子供のような仕草に俺の狸寝入りも限界を越えて、ついに爆笑した。

「はやくこいよ。どうしだんたよ」

 するとお前は下を向いて小さな声でいう。

「…きのうはすまなかった」

 そんなことば、きこえないよ。すまなくなんてない。だからいいんだ。

 

 だからおれは、いつものようにベッドの横の空いたスペースをぽんぽん、と叩き。こっちに来るように笑って促す。

 するとふっと安心したように笑い返したお前は、大胆にもジャンプして俺のベッドのスプリングを軋ませて飛び込んできて。

 ぽふん、といつもの位置に横たわった躰は、白いシーツの雪に咲いた一輪の紅い花の様で、春の訪れのように、硬い蕾が開くが如く相貌がふわりとほころんだ。

 なにも、訊ねるまい。ただ、おれはだたお前の横にいる。だから、俺の花よ、どうかそうやって鮮やかに咲いていてくれ-----。

 そう、うれしくて抱きつこうと伸ばした腕は、何故か無下に振り払われた。むくれて詰め寄る俺の目の前で。カミュはごくごくと冷蔵庫から勝手にとったと思われるペリエを飲み干し。平然と、涼やかに、しかしあくびを噛み殺しながら云った。

「お前の顔を見たら、なんだか安心した」

 え? ちょっと待ってくれよ、ベッドにきてくれたということは、それは、その…そういうことなんだろう? ちがうのか? 巨大な疑問符が脳内に浮かぶ目の前で、おまえは本当に安心したように大欠伸をして云う。

「呑みすぎた。もう一度寝かせてもらうぞ」

 は? ちょっとまてよ。俺のこのリビドーの行き場はどうすりゃいいんだよおい、ちょっと起きろ---!そんな非難の視線をものともせず。お前はもういちど大欠伸をして、罪なことに俺の指先にそっと手先を絡ませ、しっかりとベッドの半分を占領し、安心したように微笑んで、瞳を閉じた。まるで寝心地のよい居場所をみつけた動物のように、緊張感のかけらもなく躯をあずけられる感触。相手がおれだからいいものの、いーのかよ、仮にも黄金聖闘士が。

 あーあ、そんな無防備なお前じゃあ手もだせやしない。

 まったく。敵わないよ。

 




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2013/1/27 修正格納