何故サガが「苦しんでいた」と想ったかですって?

 とうに知っていました、彼は私の館にたびたび訪れていましたから。

 おや、貴方でも案外と驚いた表情ができるのですね、バルゴのシャカ。

 その呼び方はよせ? よそよそしいでしょうか。

 しかし我々はもうあの幼い頃とはずいぶんと違ってしまっているのです。






    Taste of Blood




 


 ですが貴方のその無関心を装った興味津々の顔というのは存外に興味深いものなのですね、そういえば久々に貴方と顔を合わせたのでした、最後に御会いしたのはいつでしょうか。まあそんなことはどうでもいい、聞きたいということであればお話しましょうか、彼と逢っていた日々を。

 おや、そうではない? では私の心の中だけにしまっておきましょう。

 いえ、申し訳ないがわたくしは今とても話したい気分、清々しく澄み切った心持ちなのです。これは彼が死んだからではありません、彼がいま苦悩から開放されここに横たわっているからこそ、私も彼と共にしあわせなのです。ですから勝手な言い分ではありますが、わたくしに喋らせてはくれませんか?


 彼がくるのは必ず朔の宵でした。まるで月の光で理性を保っていた獣がその封印を解かれてしまうように、なにも言わず、小宇宙で連絡も取らず、結界を張ったあの石造りの部屋にいきなり入って来てはどっかりと腰を落とし、あるいは頭を抱えてうずくまるのが常でした。

 あるときなどは、もの凄く上機嫌な様子で入ってくる。そういう時はたいてい血の匂いがつんと鼻につくのです。

 館に来る時の彼はたいてい体中に血を浴びていました。もうそのときまでにはそのようなことには慣れきっていました、ですから。

「今度は何を理由に人をころしたのです?」と、訊ねると彼は狂った様に笑って...ええ、そんな時の彼は本当に古代神のように美しかった。

 そういうものを美しいというのは適切ではない?いいえ、彼の美質は狂気と正気のはざまにこそ輝いておりました。

 一見無機質な岩盤の中に潜む数マイクログラムのオリハルコンがあるように、純粋な彼自身は混沌のなかにそっと存在しており、その輝きを彼はわたくしだけにそっとかいま見せてくれていました。ええ、そう信じています。

 だって自分の犯してしまった罪状をあらいざらい並べ立て一晩中悔いては八歳も年下の私の膝に縋り、助けをもとめ涙を流す年上の男のその涙の色といったら、まるで涙の結晶構造が鉱物のように輝くのですよ。その瞬間をお見せしたかった。


 ああ、失礼、話がそれました。

 館にやって来たサガは響くような声で高く嗤って、血なまぐさい法衣を私に見せつけるのです。私は命をかけ小宇宙の宿った血液にしか興味はありませんでしたから雑兵や侍従の血液などみてもなにも思わなかった、ですから。

「勝手に洗ってさっさと此処からお帰りなさい。」と、大抵はむべもなく断ると急に激高しては私の胸ぐらを掴み、床に叩き付け暗い赤い瞳で。

「おまえなぞ、いつでも殺せるのだ。」というのです。ですがわたくしが

「では殺してごらんなさい。」というと、またもさながら聖堂で罪を悔い改める帰依者の様に真摯に詫びるのです。

 ええ、もう既に彼が師を弑した事なぞとっくに解っていることでした。

 しかしいつしか私からは憎悪の感情は消え、むしろあの美しいギリシアの彫刻じみた顔が歪み、あの眉間の苦悩の皺にそっと触れるときに限りない喜びを感じることを知ったのです、そして私の言葉は心からの本心でした。あの人になら殺されてもいい。

 ああ、なんとあの人は可愛らしい下僕であったことか。そしてわたくしはなんと彼の善悪の混沌に魅了されていたことか。


 その夜の血液の匂いは異なっていました。雑兵の血液に混じったまぎれもない黄金の血のかおり。

 その匂いに気がついた私が修復の手を休めて顔をあげると美術品のように整った筋肉のそこかしこ、至る所に傷があるのです。

 サガを倒せる相手などその当時いなかった?

 ええ、そうです。誰かに倒された傷ではありませんでした。その時の彼は何か大きな力に身も心も委ねたような恍惚とした笑顔で

「自分でやったのだ。」

と笑いながら言い放ちました。

 なぜか、ですって? わたくしには良心の呵責に耐えかねたもう一人の彼が罪を悔いて死を選ぼうとするその気持ちが痛い程に伝わって来ていました。

 ですが、その反面。何度も死を選ぼうとして自害を完遂できない。

 その苦悩の表情を眺めるのもわたくしの至福のひとときでありました。

 ことさらにその日の傷はひどかった、よく覚えています。

 外腹直筋まで見える挫傷が胸骨の中央からざっくりと伸び、出血した下には薄い腹膜一枚だけが見えてそれがかろうじて内臓をささえていました。

 わたくしはその最高の黄金の血液をうっとりと眺めて、まず修復が必要な聖衣に使用します。動脈血の赤は酸素を含んでいて本当に美しい。私は筋膜の間に口づけてそれを慎重に舐めとるのです。

 そして、匙のように丸めた舌の間から血液を聖衣に丁寧にぽたりと垂らすと、どの聖衣もどんな貴金属を使用した時よりもすばらしい輝きを放って復活するのです。

 彼のヘモグロビンが崩壊した血液の味は素晴らしかった、ただの鉄の味だけではないのです。後悔と逡巡とそれでも自分の運命をまっとうし続けなければならない哀しい決意の味がいたしました。わたくしは何度それを修復に使わずにすべて飲み込んでしまいたいと思った事でしょうか。


 彼は最初に横たわり、ぐったりとわたくしに全てを委ねます。躯は疲れきった風情で、それでもその皮肉気な表情は変えず。

「修復師というのは皆お前のように美麗な外見で聖闘士を狂わせるのか。」と、腕を伸ばしてわたくしの髪に長い指を絡ませながらくくっと笑うのです。 

 このようなことをするのは彼にだけでしたから黙って瞼をあげると、彼と私の瞳がぶつかります。教皇位の略奪者とそれを知りながら沈黙を守るもの、その暗黙の共犯関係はあまりにも甘い旋律をもって音楽のように私達の虹彩のあいだに流れていきました。

 徐々に舐めとった躯の組織がその場から修復してくると、彼の瞳は炎の色から静かで慎ましい夜の色に収まり、そして最後には静かに瞼を閉じるのです。 

 そのやすらかな顔を眺めながら床に広がる長い髪をゆっくりと解き、ときには彼の顔や躯についた泥や血液の残滓を最後まで丁寧に舐めとり拭き清めると、やっと、長い指が静かに修復道具を磨くヴァセリンに伸びるのです。

 その油脂をゆっくりと掬い取る逞しい腕と繊細な指先といったら…その先の事を想っただけで私の躯は震え熱くなるのでした。

 ええ、そのあとの事をこれ以上はいいますまい、これは私と彼だけのこと。ですが解るでしょう?心をすべて委ねてくる相手に我が身を喰らい尽くされる恐ろしい程の快楽というものが。


 さあ、ここまでお話しました、そこをどいてください。

 今、このひとは、やっと長い苦悩を越えて安堵の中にいるのです。

 なんという優しい安らかな顔、閉じられた瞼はこんなにも静かな笑みをたたえているではないですか。


 おや、わたくしは涙を流しているのですか? それは気がつかなかった。

 そんなことはどうでもいいのです。

 ただ、その血液の味を記憶に留めておくことを。

 それだけを赦してほしいのです。










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