----行ってくるよ。
俺は「あのとき」から闘いに臨む前に必ずその儀式をするようになった。
自分の左指に口づけをし。そしてその手を、聖衣の胸の中心にあるピジョンブラッドにあてて勝利を誓う。
こんな事を云っては、不敬にあたるだろうか。
俺が闘うのは、表向きは女神のため。だが、心まで縛る事はできない。このルビーの中にあるお前の髪。そしてアーマーの左薬指に密かに仕込んでもらったお前の躯の一部。俺はそれに魂のすべてを捧げて誓うのだ。
--- Pigeon's Blood ---
何もかもが崩れ、過去の価値観が壊れたあの日の夜。
全てが終わった数時間後、俺は妙にひんやりとした宝瓶宮におそるおそる足を踏み入れていった。絶望の中にほんの僅かな期待を持ちながら。
大理石の床を歩く音が妙に響いた。どんな戦闘でも感じた事の無い、背筋が凍る程の、大切な何かを失う恐怖がじわじわと這い上がる。普段はいかにひやりとした凍気が舞っていようとも、お前の存在の暖かみを感じるこの宮だが、主に起こった事を悲しむように沈黙の壁があたりを包み、その奇妙な静けさに脚がすくんだ。
本当はカミュの処まで、全力で駆けていきたかった。だが、ありえない想像が現実になってしまうことが怖かったんだ。
だが、現実は常に冷徹で残酷だった。闘いの中で見失ったアクエリアスの小宇宙。自分が感じた最悪の状況がそこにはあった。
まるで、幼いとき。訓練に疲れて眠ってしまった時のような格好で、あたかも眠っているのかと見まごう程に微笑み、静かに横たわっていた。
近寄って霜を払い、じっと眺めたその表情はおれにも見せた事が無い程の幸福な光に満ちていた。エクスタシーのあとで眠っているときでさえ、そんな満ち足りた顔をした事があっただろうか?と、俺は記憶を必死にたぐる。
お前は、たった数時間前、ベッドの中でお互い愉悦の時間をわけあったあと以上の至福の表情を浮かべていた、まるでまだ生きているが如く。
「おい、おまえが、どうしてなんだよ。」
つい口に出した言葉が、冷たい壁にわんわんと反響する。だって何故お前が? 弟子と闘って? 何故そのような笑みを浮かべて倒れているんだ。きりきりと胸の奥が痛んだ、これが嫉妬というものだろうか。
俺はその冷たい躯の脇に横たわり、やさしく髪を撫でながら口づけをした。なんの反応も無い、それ以外は普段とまったく変わらなかった。
いったい何が起こっているのか自分の脳は処理しきれずに、抱きしめ、声をかけ、何度もキスをした。
いつだったか、シベリアの大地で。二人とも芯から冷えているのにそれでも雪の上を転げ回りながら笑った。いつまでも何がおかしいのかわからないくらいに、腹が痛くなる程に声を出して大笑いしたあと。俺の鼻の先についた雪をはらったおまえは、突然儚げな表情をして雪の中の花のように微笑んで、おれは我慢できずにその場でお前を抱きしめてしまったのだったな。そんな回想が心をよぎり、いつの間にか屹立していた自分自身を慰めていた。
目の前の美しい睫毛には払っても払っても霜が降り。その静謐な姿は、あのとき雪の上で俺の愛撫を静かに受けて瞳を閉じ、指先の動きの一つ一つまで感じようとしていたあのときのお前のように見えた。その瞬間、体内深くから熱い一瞬の破裂が上がってきて、白く冷えた聖衣に俺の精液がかかる。
つう、とおちていく液体が聖衣についても、お前はぴくりとも動かない。
うそだ、とおもうこころと、欲情に引き裂かれ。
どうしようもなく、俺は何度かお前の目の前で射精した。
気がつくと、俺は確かめるようにアクエリアスの聖衣を剥ぎ取り、脱がしていた。ああ、これは俺が昨日つけた傷。こちらは、違う。闘いの傷だろうか。そう思いながら一つずつ口づけをしてさらに俺の刻印を押していく。
なあ、いつもみたいにくすぐったいと嫌がっておれを振り払ってくれよ。
なぜそうしない? くそ、解らない。ふざけないでくれ。
本当は、ただ寝ているだけなんだろう? やめろと言ってけだるそうに起きてくれよ、いつものように。
そう思ってお前に跨がり、冷たい胸に顔を埋めてはみたけれど、嫌がる素振りも、もちろん呼吸すらない。
ルビーの瞳は薄く開き、細く差し込む月の光を反射し、長い睫毛が頬に影をつくっていた。まじまじと覗き込み、鎖骨を舐めながら、その至福の表情に俺は欲情し同時に嫉妬してお前の上に馬乗りになり、全身に口づけをして、愛撫し、滾る自身を押し付けた。
かえってこない口づけが、まるで、最初に心を開いてくれなかったお前のようで。どうしても、くやしくて。
なぜそんなに満ち足りた顔をしている、俺では足りなかったのか?
怒りを混めて持ち上げた後孔はもう俺を暖かく受け入れず、弛緩した躯に追いすがり、抱きしめ、語る俺のなんと滑稽な様よ。
だが、お前の顔、引き締まった躯、流れるような豊かな紅い髪はあまりにも蠱惑的で、俺を引きつけて離さない。
ああ、おまえは、俺になんという足枷をはめるのだ。
こうして置いて逝く事でお前は永遠になってしまった。
昨日舐めたばかりの鎖骨に軽く歯をあてて齧りながら、白い肉を引きちぎって喰らいたい衝動をおれは必死でこらえる。いつものようにお前の手をとって、俺の局所にみちびき、握らせて上下にさする。だが、ほんの数時間前に力強く俺をもとめ抱きしめていた腕は、あっけないほどぱたりと落ち、ただ、月明かりに真っ赤な爪だけが浮かび上がってみえた。
これがどんなに莫迦な行為か解っているつもりだった。だが、最後にお前に痕をつけるのは俺でなくてはならないのだ。必ず。なぜなら今までに俺が愛した人間はお前だけしかいなかったから。
他にはなにもいらなかった、お前さえいればよかった。だが、お前は弟子との戦闘で満足げに逝ってしまった。
「酷いよ、カミュ」
口に出して云ってから、自分がぽたぽたと溢れる程に涙している事にやっと気がついた。きのう、怖い程真剣に、情熱的に俺を求めていたのは、こんな事態を予感していたからなのか?
ひどいよ、ひどいよ。と、こどものように泣きながら。そのまま自分の猛る物を、昨日と同じ場所にむりやり挿入する。冷所では硬直も早いのか、あまりにもきつい後孔。しかし、入れた瞬間に彼我の現実を突きつけられ、酷く後悔する、だが、もう自分を止められなかった。
俺の自慰にも近い行為で、お前の髪はさらりと揺れ、首がかくりとうごき
その度に、もしかして生きているのかとはっとする。
ああ、月が昇ってきたな。こうして首すじを舐めたのは、まだお互いに快感の場所さえわかっていなかった頃だった。あのとき、開け放した窓から見えた月がお前を照らしていて、徐々に染まっていく首筋から耳朶があまりにも綺麗だったことを俺は不思議な気持ちで眺めていたのだ。
耳元で、愛の言葉を話しかけられながらする行為をお前は好んだな。おれが照れてすぐに行為に及ぼうとすると「なにかいうことはないのか?」と愛の言葉をねだった。こんなことになると知っていたらどんなことでも言ってやったのに。馬鹿な自分。俺の聖衣のピジョンブラッドを評して「私の可愛い鳩」などと云われたときには驚いたものだが、おまえの母国では、恋人を動物やお菓子に見立ててそのように呼ぶのは普通なのだと後に知った。
おまえこそが、俺の鳩だったのに。
シベリアの平原で転げ回った、あのとき。
「さむい!」と俺は叫んだが、今の方がどんなにか躯が冷たいのだろう。温度の違いではない事は明白だ。
白い雪が紅い花のような髪にも顔にも降りかかっていて、お互いに触れたところがじりじりと焼けるように熱かった。寄せられ離れたくちびるを濡らすのは、雪ではなくお互いの涙で。「寒いな」と、ちいさくつぶやくと、ぎゅっと握り返される確かな手のぬくもりにそっと目を閉じた。幸せだった。
ぬくもりを感じながら。同じシーツに包まって、寝息に聞き耳をたてた特別な朝。お前が起きる素振りをみせた瞬間、頬を寄せて、耳元に囁いた。
「たんじょうび、おめでとう」
一番乗りだなと俺は笑い、おまえはちょっとだけ眠そうな表情で俺の瞳を見てからさらに頬をつよく寄せて微笑んだ。 ずっとこうしていたかった。どんなに寒い夜でもベッドの中で頬と頬をくっつけあって。 二人一緒なら怯えるようなものなんてこの世界には何もない、そんな気がした夜明け。あれは、いったい。お前が何歳の時だっただろう。
ああ、今、躯の芯が寒くてたまらない。まるでシベリアの家で一人取り残こされ、約束の時間などとうにすぎても帰ってくるのか来ないのか、わからないお前をずっと待っていた時のよう。お前は帰ってきてくれるのだろうか。こんな事態に欲情する俺が狂っているのか?それとも、もうこの世界自体がおかしいのか?
俺は叫び、泣きながらまるで精巧な人形のように反応のないおまえの中で再度達し、その体液は弛緩した孔からだらりと無為に垂れていった。
お前の表情は変わらない。睫毛の長い整った顔は、見ようによってはひどく幼く見えた。はじめて逢って、あんまりにも奇麗だからキスをしたら、きょとんとしていたときのようで。
俺は、怒りとやるせなさと、嫉妬と、そして限りない愛にまみれた自身の放出を再度お前の中に押し入れ、そして全身にかけた。聖衣に垂れる白濁した液体はすぐに霜で固まっていき。空しいと解っていても、何度も何度も抱き、犯さずにはいられなかった 。
この行為は、屍姦、と呼ぶのだろうか。
だが、そんな言葉と、今、俺のしている行為と、俺たちのいままでの交わりは、あまりにもかけ離れている気がしたんだ。
「なあ、どうしてそんな満足な顔で逝ってしまったんだよ。俺には、出来なかった事なのか?」
だいすきだよ、と語る紅い睫毛にはもう次の霜が降りていて。そっと触れた頬の温度は、なにより冷たく現実を物語っていたが、俺は、何度も繰り返し語りかけた。
いつまでも、変わらず、すきだよ。
俺は、正気だ。
狂っているのは、世界なのだろう。
運命の理不尽に何度も泣き、幾度も達し。時間の感覚すら解らず、まるで腹の底からの雄叫びと涙を絞りつくすように愛し続け。全身が白く濁ったころ。宮の外からだれがが呼ぶ声がした。
「あけてください、ミロ。聖闘士の墓場へあなたの友人を葬らなくては」
静かに言う、その声には聞き覚えがあった。
はは、こんなにぐちゃぐちゃの状態で?
逢わせられるか、俺だけの、ものなのに
お前の全てが好きだ、愉悦に蕩けた顔も苦悩した表情さえ愛おしかった。
なあ、カミュ。今どんな気持ち?言ってくれ、おねがいだ。こんなにも愛の言葉を語った事などなかっただろう? いくらでも言う。もう、照れたりなんかしない。 お前が望むことはすべてしてやるよ。俺はもう何もいらない。だから、いちどだけでいい、おねがいだから。返事をしてくれよ。抜け殻となった躯に縋り付きながらも、多分ほんのすこしだけ残る理性は口をついてこう答えていた。
「俺の手で、奇麗にしてから、はこぶよ」
だいすきだよ、と何度も云いながらバスルームに運ぶ、魂が抜けて弛緩した躯は存外重く。お前の髪がさらさらと俺の頬をくすぐった。どうして、こんなことになっちゃったのかなあ、とふざけて言ってみても、浴室に自分の声がこだまするだけ。
心配そうな小宇宙を外に感じながら、俺はカミュの躯をバスタブに入れてゆっくりと丁寧に洗った。
ざぶりと水の中に沈めると。しんとした水槽の中に広がる長い髪、赤い唇、目を閉じた様はまるで何かの図版で見たオフィーリアのようだった。こぽこぽと肺に残った僅かな泡が口から溢れ出る。
その魂は彼方へ飛び立とうとも、体の変化はおこることがやけに切ない。おまえの爪はすこしだけ伸び、根元のマニキュアが落ちかけていた。
「ああ、だめだよ、これでは」そういって爪を整え、聖衣も洗ってもう一度着せてから、俺は皆の前に抱きかかえて現れた。
そうとうやつれた顔をしていたのだろう。ほっとした皆の視線が突き刺さる。いったい、何日経っていたのだろうか、自分でも解らなかった。
ああ、もうここで俺だけのお前ではなくなり
聖闘士としてのお前の葬儀がはじまってしまうのか。
親しいものを失った時間は妙に長く、そして短い。俺は、バスルームで密かに、取っておいた左の薬指の爪のかけらと毛髪を、ムウに渡して云った。
「お願いだ、これを、俺の聖衣の中に混ぜる事はできないか?」
最初ムウは悩み、すこしの間、口のなかでつぶやいていた。--- 色は同じでも髪の毛の結晶構造が違いますね、酸化クロムの結晶はコランダムと相似で陽性イオンが2%入れ替わると全くのルビー色になります。不純物の違いでも色が変わる。クロムが1%混入すると濃い赤色のピジョンブラッドになるのです。これはなかなか難しい…。
そういいながら、ムウは俺の聖衣とカミュの聖衣を触ると、全てを悟って、はっとした顔をした。
---- あなたがたは。
---- やはり解ってしまうか、すまないな。気持ちが悪かったか?
すると、いいえ、とかぶりを振って、牡羊座は静かに嗤った。十何年かの孤独に想いを馳せるように。その表情は限界で生きていく俺たちの全員の運命への諦観に満ちていて、最終的には化学組成とやらに悩みながらも、願いを聞いてくれたのだった。
だから、俺の聖衣のピジョンブラッドにはお前の髪。
そして薬指には、お前の爪 。
『ありがとう----。』
--- 感謝の会釈をして別れたミロは、薬指に口づけ、胸のルビイを愛おしそうに握りしめた。その後姿に、長いマントが生き物のごとく纏わりはためき、まるで恋人のごとく躯に寄りそっているのをムウは見送る。
黄金の髪と聖衣は太陽のごとく輝き、蠍座の握りしめるピジョンブラッドは何もかもを受け入れた彼の恋人の瞳のように煌めいている。
ああ、きっと。今の彼にはもう恐れるものなど無いのだろう。そう想いながらも、聖域で何事かが起こる予感を牡羊座は払拭することはできなかった。
再び蠍座と水瓶座が出会う悲劇が繰り返されるやもしれぬ。しかし彼らにとってその邂逅はいかに辛くとも苦しくとも甘美な旋律に満たされているやもしれぬ。
--- シオン様。私のしたことは、果たして、正しかったのでしょうか。
聡明なアリエスは。久々に見上げるスターヒルからの星空を眺め、そう遠くない未来に想いを馳せた。
了
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2013/2/7