きらきらとした水面の反射を受けて

 日焼けした男が笑って俺に声をかける。

「おい、そこの死にぞこない。」

  

 あいつは俺のことを良くそう呼んだが、なぜか嫌ではなかった。

 にっと笑った端正な『男』の顔に隠された

 歳に似あわぬ子供のような内面を感じたからかもしれない。





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 「あっちーな、オイ。きょうはなにからやるか。」

 たいてい海闘士の訓練は炎天下の海辺だった。

 およそ大人がいうとは想えない様な台詞を吐いて。

 彫刻のように端正な横顔が水平線を見つめている。

 

 氷河を助けたあのとき。俺は、さむくて、くるしくて。

 もう、覚悟を決めた瞬間に水中から引き上げられ、最初にみたのはカノンの顔だった。寒さにぶるりとからだを震わせ立ち上がろうとすると。

「起きたか、大丈夫そうだな。」と、確かめるようにまじまじと俺を見て。

「お前、なにかの闘技をやっていただろう。いい躯をしているな。よかったら明日から俺のところに来い」なんていきなりいいやがった。

 第一印象はがさつで強引で最悪。だが見惚れる程に整った顔立ちをしていた。美しいと言ってもいいかもしれない。俺が唯一師匠と呼ぶ、あの人とは大違いだと想ったが、その感情はすこしずつ変わって行く事になった。


 目の傷が治ったとたん、容赦なく訓練が始まった。

「俺は寒い海が嫌いなんだ。」なんて勝手に決めて。たいてい訓練はきつい暖流を選んで行われた。赤道直下の暖流は日差しが強くても深海まで潜ると深く絡み付く藻と速い水流に足をとられること、みたこともない海の生き物がいること、そんなことに注意したり驚きながら、だんだんとここの生活に慣れて行った。


 カノンは、俺の素性を一切問わなかったが、ときに手合わせしながらいう。「お前、ちょっと変わった癖があるな。」そして俺の拳をとり、じっとみて、こういうんだ。「あまりにもこの技を引きずっていると、命取りになるぞ。」

 そんなことをいう瞳は真剣で、まるであの、もう会う事も出来ない紅い瞳の師のようで、俺のことを考えてくれているのか、と。少しだけ胸がちょっと熱くなった次の瞬間、こんなことをいう。

「ま、俺にはどーでもいいけどな。」…くっそう、このオヤジが。

 でも俺が腹をたてた翌日にも、躯を気遣いながら技を丁寧に矯正し、世界に想いを馳せて語る。ギリシャ彫刻のような整った顔貌と、ときどきみせる子供の様な笑顔に、あの真面目な、聖闘士の鏡のような紅い瞳の師とはまた違った意味で、ほんのちょっとずつ、魅せられていってしまっていたのだろう。だから、その瞳の行き先に、俺もついて行こうと決めたんだ。


「あっぢーな、オイ。」

 今日の訓練もそんな言葉で始まった。


 だったら、もう少し涼しい海でやれよな。と俺は想うのだが。日に焼けた肌と海の香りが強い風、刺す様な太陽の光に反射して輝く威風堂々とした風貌は彼がこの海にいることを祝福しているかのようだった。

 そう、いつもだったら。

 だが、なんだか今日のカノンはぼんやりと遠い眼をしている。一体何を見つめているのだろう…? 時々貴方はそんな瞳をする。俺はなにもかも捨て去ったつもりだというのに、貴方は、いったい。

 そう思って振り向くと。「 あっぢい、マジ。」という言葉とともに大きな躯がゆらりと倒れて、どすんと俺にのしかかって来た。額に手をのばすと燃えるように熱い。風邪?貴方が?とにかくこんな海のど真ん中で倒れられてもこまるから、近くの島まで重い躯を引きずり、木陰に躯をやすませた。

 

 浮かされたような熱の中で貴方は、うっすらと瞼を開き、擦れた声で何事かをつぶやいている。

「カノン。わかりますか? 何か欲しいものでも?」

 そう、焦って耳元で叫んだ俺が聞いたその小さな囁き、それは。

「…にいさん。」

 その言葉を耳にした瞬間---何故か、心臓が抉られるようだった。

 カノンは。はあはあと小さな息でそういって、長い睫毛をゆっくりとまた閉じた。火照った精悍な頬を見下ろしながら、俺の見えない方の瞳の奥がずくずくといたむ。俺もすべてを捨てるつもりだったのに、いや、捨てきれないまでも、ついて行くつもりだったのに。だが解っていた、解りすぎてしまう自分が嫌だった。過去を完全に捨てきる事はできないのだ。俺にだって忘れられない優しい過去が有る。貴方にあったからといって責められる訳も無い。自分自身の妄執と、貴方への忠誠心がごちゃごちゃになり、胸の中に石がつまったようだった。訳のわからない感情に涙がでそうになる。


 そのまま駆け出して清水をみつけに行こうとした。とにかくなにかをしていなければ自分の感情が整理できないような気がして。だが、その島には探しても探しても湧き水は見つからず、砂浜と周囲は美しいが海水に囲まれた白浜ばかり、ハマボウフウがえんえんと続いている枯れた土地だった。


 俺は諦めて、カノンの元にもどり、自分に禁じていた小宇宙を指先に集めた、俺の素性がばれてしまうかもしれない。だが熱い頬をしたまま、荒い呼吸を繰り替えすカノンにそんな事は言っていられない気がしたんだ。

 

 まずは凍気と同じ、指先に凍結できる液体を集める。そう、海水。

 だが、人の口に運ぶにはまだ塩分が強すぎる。俺は原子を操作してNaClを慎重に取り除いた。出来上がったのは、H2Oのみでできた美しい氷の結晶。

 貴方だけのための純粋な水。

 その氷をすこしずつ溶かして、ぽとり、ぽとりと唇に垂らした。すると、乾いた唇が微かに動き、ゆっくりと嚥下していく。もっともっとと求める様な仕草に、つい指先をあてるとカノンはゆっくりとそれを舐めきった。

 はは、くすぐったいですよ、大の大人が、赤ん坊みたいに甘えて。

 俺の手で作った水を飲みきったところで、カノンはうっすらと目を開け、俺の手のひらを握り、自分の額に持って行っていう。

「つめたくて、きもちいーな。お前の手。」


 貴方が瞳をあけて、なんだかまた子供のような笑顔に戻ったことにほっとして俺は心に誓う。

 あなたが、にいさん、とつぶやいていたのは秘密にしておきます。ただ、その濡れた唇が、ギリシアの神々のように、あまりにも整っていて奇麗だから、触れてみてもいいでしょうか…そう思って寄せた唇を、カノンはじっとながいこと静かに受け止め、最後に「ありがとうな」と耳元で囁いた。


 でも、つぎの瞬間ふっと笑ってこんなことを言うんだ。

「オマエさ、もうすこしマトモな恋愛しといたほうがいいぞ。ダブルスコアのオヤジになにやってんだ。」

 くそ、自分でオヤジとか言って、人の恋愛感とか、いいじゃないですか。

 俺の忠誠心とか、貴方の境遇とか、もう気になんてしません、わかりました。次の訓練こそ負けません、海に叩き込んでやりますから!

 おれは、拳を握ってそう、誓いなおした。

 



 


2012/8/12



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